数学教材作成ソフトに typst / LaTeX を選ぶ理由

目次

数式を取り扱うことのできる有名なソフトウェアを比べ、typst / LaTeX によって教材(授業プリント)を作る利点を述べる。なお、typst は2023年に発表された組版ソフトであり、LaTeX に近い表現力・易しい入力・速い処理を鼎立したソフトウェアである。

背景

私は高等学校の数学科教員である。 教員の果たすべき大きな役割のひとつとして、生徒たちに学問の面白さを教え、学問を通して育ってもらうことがある。 その手段のひとつとして、自ら教材を作ることは日常である。 数学の教材を書くにあたっては、数式をそれなりの見映えで仕上げねばならない。

数式を書くためのソフトウェアはいくつもある。 しかし、何を作るかを自ら選んだひとよりも、はじめて触れたものを深く考えずに使い続けているひとが多いのではなかろうか。 私は typst と LaTeX、とくに typst を勧めるが、それよりもまず、一度比べてみることが大切なのではなかろうか。

解決

この記事が目指すもの

教員のなすべき範囲は広く、あらゆる教材を手ずから書くことは難しい。 そこで、多くの教員によって WWW 上で教材を分かち合う文化が育てば、教材の質・教員の余裕のいずれにおいても、日本全体の教育に資するのではないかと考えている。

教員の労働環境については報道されている通りだが、近ごろは生徒たちがそれを気遣っているようにすら感じられる。生徒たちが話したいと感じているときは何よりもそれに向かうべきであり、日頃からそうした余力が全体に保たれているべきだと感じている。

さて、これらのために、あるいは単に自ら教材を書くだけであっても、typst と LaTeX、とくに typst が優れていると思っている。

ここから順を追って、教材を作るにあたっての typst / LaTeX の長所を述べる。 それを通して、typst / LaTeX で作られる教材が増え・広まってゆくことを期待したい。

各ソフトウェアの特徴

数学の教材を作るソフトウェアとして、私がこれまでに使っているひとを見たことがあるものは次のとおりである(使用者の多いと思しき順)。

実際には、職場が包括ライセンス契約をしている場合もあって Studyaid D.B. のシェアがとくに多いように思われる(2023-08-13 現在、私の勤務する自治体を含む)。一方で、私は typst と LaTeX(LuaLaTeX)を使っている(持ち寄って作りあげる校内模試などでは、編集者に合わせて Studyaid D.B. を使うこともある)。

どれを選んでも、読める教材を書くには足りる。ここで、それぞれの特徴を見てみたい。

数研出版 Studyaid D.B.

  • 有料である(職場が包括的に契約していることもままある)。DVD-ROM 版オンライン版とも 11,000 円から(2022-07-22、データベースとセットになっておりデータベースごとに料金がかかる)。オンライン版は最も後に購入したものから4年が経つとライセンスが失効する。
  • DVD-ROM 版は Windows でのみ動くオンライン版はデスクトップアプリは Windows のみ/ブラウザ版は広く動く
  • WYSIWYG(ディスプレイで作るものと仕上がりが同じ)である。
  • マウスによって選び数式を入力するか、ショートカットキーにより数式を入力する。コピー&ペーストはある程度の単位でできる。
  • 細かなインデント・日本語と数式のカーン(グルーは不可)などは全角の 1/4 スペースにより半自動・手動で行う。
  • フォント(数研出版が著作権を保持)のライセンスは(web 上で検索する限り)明らかでない(フォントを埋め込んだ PDF を配付してよいかはわからない)。
  • データベース商品があり、すでに用意されたものを組み合わせて教材が作れる(むしろデータベースが商品本体であり、教材作成ソフトウェアはそれについてくる)。
  • 中等教育におけるシェアがきわめて大きい。

LaTeX

  • 無料・パーミッシブライセンス(ソフトウェア再配布の要件が最小限のソフトウェアライセンス、すなわち大手の配布元が失われても誰かが代わりに配布できる)である。
  • Windows、macOS、Linux、BSD、Android、iOS などで動くクラウド上のサービスもある
  • LaTeX では、文書の見映えは LaTeX に任せ、執筆者は文書の内容や構造(これは見出し・これは強調といった抽象的な指示)のみを扱うという役割分担の思想がある。したがって、見映えを整えることに時間を取られることなく内容に取り組める。たとえば、細かなインデント・日本語と数式のグルー・式の採番などはふつう LaTeX に任せれば上手く処理される。既製品を組み合わせて見映えを選ぶこともできる(私家版の学校教材用テンプレートも公開している)。すべてを意のままにしたければ、新たに命令を作ったり定義済みの命令を直すことで行うが、これを学ぶことはたやすくない。
  • WYSIWYG(ディスプレイで作るものと仕上がりが同じ)でない。ソースコードを書き、ソフトウェアを走らせてコンパイル(LaTeX の慣行ではタイプセットと呼ぶ)することで出力を得る。
  • ソースコード(テキスト)を入力することで数式を入力する。コピー&ペーストはソースコード(テキスト)に対して行う。ソースコードの入力を補うウェブアプリもある
  • フォントは選べる。デフォルトのフォントである原ノ味フォント・Latin Modern フォントのライセンスはフリーである(埋め込んだ PDF をそのままアップロードして差しつかえない)。
  • データベース商品は(2022-07-22、私の知る限り、)存在しない。有志による web 上の素材がいくらか見られる。
  • 中等教育におけるシェアはさほど大きくないが、web 上には見られる。ただし PDF での共有が主で、ソースコードが公開されていることは稀である。
  • 「役割分担」の標語は次の本による:
    • 明松真司
    • 1週間でLaTeXの基礎が学べる本
    • インプレス
    • 2022

Microsoft Word

手書き

  • 無料である。
  • 内容以外に著作権的な問題はない。
  • コピー&ペーストは紙の切り貼りになる。

Typst

Typst / LaTeX で教材を作成するメリット

私が教材を typst / LaTeX で作る理由は次のとおりである。

  1. 費用

    • Typst / LaTeX は無料である。とはいえ、私の現在の職場では Microsoft Word や Studyaid D.B. も包括契約されているため、そこに差はない。しかし、いずれ職場が包括契約を止めたり、自分の環境が変わり(少なくとも退職すればそうなる)自らソフトウェアを用意せねばならなくなるかもしれないと考えると、無料のソフトウェアを使うほうが安心である。
    • Studyaid D.B. も Microsoft Word も原稿がバイナリファイルであり、ほかのソフトウェアで眺めることはできない。したがって、値上がりなどにおいて過去の資産を人質に取られてしまう。Typst / LaTeX オープンソースであるから、そのような心配はない。
    • 過去にこのような例が知られている(参考)
  2. 会社の存続

    • Studyaid D.B. は数研出版株式会社が、Microsoft Word は Microsoft が開発・販売している。したがって、これらの会社がなくなったときにソフトウェアがどうなるのかはわからない。いかに大きな企業であっても、この先数十年残りつづけるか、確かなことは言えない。一方、作った教材は資産であるから、少なくとも退職までは触れるようにしておきたい。
    • Microsoft Word は互換ソフトウェアが多く見られるが、レイアウトが少しずれるなどはよく起こる。
    • Typst / LaTeX はオープンソースであるから、そのような心配はない。また、ソースコードはテキストファイルであるから、少なくともテキストで何を書いたのかは読み取ることができ、触ることもできる。
    • 過去にこのような例が知られている(参考)
  3. 仕上がり

    • いずれのソフトウェアも、教材を作るにあたっての機能は備えている。しかし、Studyaid D.B. では出力の細かな見映えはソフトウェアに合わせねばならず、こちらの願いにはあまり応えてくれない。また、自分好みの見映えを達するには記事ごとにスペースで整えるなどの手間がその都度かかりる。Word では、ある程度テンプレートを作っておくことができるものの、「Word のお節介」によりいろいろな場面でストレスがかかる。
    • Typst / LaTeX は書籍や論文のために作られたソフトウェアであるため、そのままでは教材らしい仕上がりにはならない。しかし、独自の設定を読み込ませることができ、それにより教材らしい仕上がりが得られる。この設定は、一度作ればすべてのファイルで使いまわせる。私が作成した設定も公開しており、これを利用して教材を作ることができる(typst / LaTeX)。したがって、私の体裁で差しつかえなければ(Studyaid D.B. の体裁を受け入れることと同じだと思えば)、心配はない。また、手間をかければそれぞれで作ることもできる。
  4. 入力

    • Studyaid D.B. のショートカットキーは Ctrl + 何か/Ctrl + Alt + 何か、が主である。これは、ほかの(Windows 上の)ショートカットキーと衝突することがある。たとえば、Ctrl + Alt + K で $\tan^{A}B$ を出力したいところ、Kindle が起動してしまう。あるいは、少し押し間違えると入力中に保存や印刷といった待たされる動きが割り込むストレスがかかる。
    • Typst / LaTeX はソースコードを入力するため、Ctrl キーや Alt キーは用いない。また、よく使う命令を予め定義しておき、入力を楽にすることができる。
    • WYSIWYGなソフトウェア(Studyaid D.B. や Microsoft Word)で文章を書いているとしよう。このとき頭の中には構造がありながら、実際には表現を入力することが多くなる。Studyaid D.B. には構造を扱う機能がない。Microsoft Word には構造を残す機能が少しはあるが、文章中のすべてをそれで済ませるのはかえって手間になる。したがって、本文中の太字は、頭の中でそれぞれの意味が異なっていても、機械から見ればいずれも単なる太字にまとめられてしまう。「見出しの太字は太字のままに、強調の太字は下線に変えよう」と思ったとしても、機械はそれらを見分けられない。したがって、手で直すほかない。
    • Typst / LaTeX はソースコードを入力してタイプセットすることによって仕上げる。ソースコードには構造を入力する。たとえば、節の見出しは = ... / \section{...}、強調は *...* \em{...} などである。それらをどのような見映えにするかは、タイプセットのときに typst / LaTeX が処理する。たとえば = ... / \section{...} とあれば前後に空白を取り・自動的に番号を振り・太字にして出力する、*...* / \em{...} とあれば太字にする、などと決められている。したがって、本文中の太字は、太字だと指示されているのではなく構造が指示されているのである。「見出しの太字は太字のままに、強調の太字は下線に変えよう」と思ったときには、「*...* / \em{...} をどう出力するか」という命令を書き換えればよいのである。
    • 一方、図を描く手軽さは Studyaid D.B. が頭一つ抜けている。Typst のCetZ や LaTeX の TikZ / emath のように素晴らしい図形描画パッケージはあるものの、時間と手間は大きくなる。私自身は、(著作権法の範囲で)できるだけすでにある図形を画像として取り込んだり、他のソフトで描いた図を貼り付けたりして済ませている。
  5. コピー&ペースト

    • Studyaid D.B. も Microsoft Word も WYSIWYG であるから、数式は「ある程度のまとまり」で管理される。たとえば、すでに入力した添字を取り出し、添字を使いまわしつつ親字を変えるいったことは難しい(新たに書くしかない)。
    • Typst / LaTeX はソースコードを入力するため、テキストをコピー&ペーストするのみで済む。入力済みの数式がどのような要素になっているかは作業に関わらない。

Studyaid D.B.は 教員にとって確かに優れたソフトウェアであろう。しかし私は、一企業が作っている有償のソフトウェアがなければ触ることのできないファイル形式に、自らの資産を預けてしまおうとは思えない。Typst / LaTeX であれば、少なくともテキストで何を書いたのかはつねに読め、テキストデータは使いまわせる。私が typst / LaTeX を選ぶ最も大きな理由は、企業のお膳立てがなければデータ資産を保てないことに危険を感じるからである

ちなみに、通常の Word 文書にも同じ心配がある。私は、業務で作るべき通常の Word 文書も Markdown 形式で記述した後 Pandoc により生成している

結論

Typst / LaTeX で教材を作ることには、次のようなメリットがある。

  • 無料である。将来的にも有償化や開発終了の心配がない。
  • 設定を読み込ませることでたやすく教材らしい仕上がりが得られる。自ら体裁を整えることもできる。
  • よく使う命令を予め定義しておき、入力を楽にすることができる。
  • コピーアンドペーストが意のままにできる。

すでに Studyaid D.B. や Microsoft Word での教材をお持ちであるあなたも、この機会に typst / LaTeX を試してみてもらいたい。 また、これから教員を目指すあなたも、typst / LaTeX を使ってみてもらいたい。 教材を typst / LaTeX によって作ることで、企業のお膳立てがなければデータ資産を保てない危うさから逃れよう。 そして、よければ教材を分かち合い、よりよい教育環境を育ててゆこう。

補足

数学科教員志望のかた

現役の教員にも呼びかけたいが、これまでの資産があるので前向きになれないということもあるだろう。 そこで、ここではこれから教員になろうとしているかたに特に呼びかける。

私は数学の授業あたって資料を作るときには typst / LaTeX を使う。仕上がりにも手軽さにもとても満足している。 しかし残念なことに、同僚に聞いても typst ユーザは皆無、LaTeX ユーザは少数派(2017年度の職場環境では私のみ、2022年度の職場環境では私とあとふたり)である。LaTeX は大学時代に使ったもののそれからはまったく、という声が多いように感じる。

同僚に LaTeX の仕上がりやマクロの手軽さを宣伝したことはあるが、どうにもハードルが高く見えるらしい。また、Studyaid D.B. はデータベースのために使っているという声もあった。

そこで、大学の講義や論文のために typst / LaTeX を使っている数学科教員志望のあなたに呼びかけたい。教員になられてからも、ぜひ typst / LaTeX と仲良くし、そして作られた資料や問題を WWW 上で共有してもらいたい。Typst / LaTeX を用いて高校数学の資料を作るひとが増え、互いのファイルを分かち合う文化が生まれれば、負担を減らしながら質のよい教育を行うことができるだろう。入試問題や問題集は著作権の問題があるものの、オリジナルの資料や練習問題の交流ができればと思っている。

ソフトウェア比較

フォントの利用条件

BIZ UD 系列フォント

教育に適したフォントである BIZ UD 系列の記事をまとめた。私は Computer Modern (Latin Modern) との太さの違いが気になり、今のところ用いていない。ライセンスの解説もある。

参考

各ソフトウェアの特徴

数研出版 Studyaid D.B.

LaTeX

Microsoft Word

Typst

企業サービスの価格改定や提供終了の例

改訂